化粧でにきびを隠す方法

化粧でにきびは隠せない?

さて、いきなりですが、質問です。女子高生がメイクする、これをあなたはどう考えますか?「今どき、そんなの当たり前でしょ」そういう意見もあるかもしれない。しかし3。代、いや“代以上の人なら、ゝ」う考える人もやはり多いのではないでしょうか。「今どきの女子高生は、化粧なんぞしおつてケシカラン」と。そう、例えばこの人みたいに。女子高生の化粧は、「高校生は高校生らしく」というストイシズムに裏付けられた社会通念が大きく崩れたことを意味する。それは同時に、高校生の飲酒、喫煙、夜遊び、ブランド物の買いあさりといつた大人同様の、あるいはそれ以上の遊び(消費的行動)を許容することでもあった。「コギャルがあざ笑う戦後教育」長尾誠夫「諸君!」1998年1月号化粧は不良の始まりだ。高校生は高校生らしくせよ。著者はこう述べています。そして続いて、ブルセラやH系バイト、援助交際など、昨今の女子高生の乱れぶりはとどまるところをしらないが、そうした問題行動の前兆としてまず現れたのが化粧であった、とまでいっています。ちなみにこの著者は公立高校の教師ですが、どうやら化粧は教育者からは目のカタキにされている様子。化粧をしない女学生はケシカラン!しかし、同じ教育者の意見でも、時代が違うとどうでしょう?これは、今からざつと100年ほど前の山脇学園(当時の名称は高等女子実修学校)初代校長のコメントです。当今の女学生が髪を乱して衣服も整えず、自くもない顔に自粉もつけずにいるのを見るのは感心できない。『モダン化粧史 粧いの∞年』ポーラ文化研究所「今どきの女学生は、自粉もつけないなんてケシカラン」憤っています、この先生は。先ほどの先生とは、正反対の意見です。山脇学園といえば、今日の都内でも躾の厳しいお嬢さん校として知られる学校ですが、そこの初代校長が今とはまるで逆のことで嘆いている。これはいつたいどういうことなのでしょう。「化粧しない女学生は、ケシカラン」「化粧する女学生は、ケシカラン」百八十度変わってしまった、化粧に対するこの価値観。明治から平成へ、この間に、いったい何があったのでしょうか。メイクアップは社会を映す鏡です。近代日本の誕生から百数十年、日本の女のコたちがいったいどんな社会に生き、どんなメイクをしてきたか、時代を追って見ていきましょう。

 

 

ニキビケアをすると断然肌の調子がよくなる!?

それにしても、「ニキビケアしない女学生は、ケシカラン」とは、現代の私たちにはずいぶんと違和感を感じる意見ですが、どうして明治時代にはこういう考え方がされていたのでしょうか。ニキビケア文化史と礼法に詳しい富山短期大学の陶智子先生に聞いてみました。「もともと肌では、ニキビケアは女性の徳育として良いこととされていたんです。儒教では、ニキビケアは女性が守るべき『四徳』の一つとして説かれているぐらいですから。『四徳』とは、婦徳(貞順の心)、婦言(口に慎みを持つこと)、婦容(姿かたちを装うこと)、婦巧(裁縫などの技術)の四つを指し、ニキビケアはこのうちの″婦容クにあたりま0す。そして、ニキビケアをし、身仕舞いを正しくすることはすべてのもととなる重要なことでした。姿かたちを正しくすれば心も正しくなり、心が正しい時には貞節も正しくなる、というように、″婦容クはク婦徳クと深く結びついていたんです」ということは、「ニキビケアは援助交際の始まり」どころか、「ニキビケアは貞淑の始まり」だった―さらにいえば、ニキビケアが奨励されていたのは、女性に限ったことではありません。思春期時代までは、男性がニキビケアすることも、特別のことではありませんでした。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一文で知られる武士の心得書『葉隠』を見ると、そこには、「紅白粉を常に持っているように」と書かれています。これは、武士たるもの、常に毅然とした顔を保つために、二日酔いや寝起きで顔色が悪い時には、頼紅や白粉でカバーするべし、という教えです。顔をきれいに作ることで、精神もきれいに磨かれる――。古来肌では、ニキビケアは誇り高く生きるために重要なものと考えられていたのです。先の山脇学園の校長先生のお言葉は明治3。年代のものですが、校長先生が育った時代には、こうした考え方が当たり前のこととして生きていたのです。

さて、サロンの場所は確保しましたが、それからオープンまでにたくさんのお金が必要で
した。
部屋を契約すると、面倒見のいい不動産屋さんは、「サロンの内装工事をしてくれる工務
店は知っていますか?」と私に聞きます。もちろん全く知りません。「じゃあ、気のいい大
工さんを紹介しましょう」と内装屋さんを紹介してくれました。
次は施術のための機械を探しました。美容材料商へ行って、痩身の機械を売っているとこ
ろはないかと尋ねると、向かいに健康機器屋があるよと教えてくれ、そこで痩身用の機械まで作ってもらえることになりました。美容材料商の社長さんに「どうやって客を呼ぶんだ?」と聞かれ、チラシを作らなければいけないことを初めて知りました。当時エステティックサロンは有閑マダムが行くところというイメージがあったので、女優をチラシに使うのが流行っていました。心配した美容材料商の社長さんが当時有名女優の高田美和さんの後援会長を紹介して下さいました。

 

 

また、知り合いの雑誌社の社長さんが知っていて、なんとお二人が無料で広告に出てくれることになり、オープンにはお祝いの電報まで下さいました。健康機器屋の社長さんはチラシの原稿まで書いてくれました。周りの方々のおかげで、オープンに向けての準備は進みましたが、保証金、看板代を払う頃には、もう持っていた600万円はほとんどなくなっていました。プン。  そこで、大工さんや機器屋財 さんには、頭を下げて50万円櫛ずつの手形にしてもらいまし瓢た。皆さんは手形の支払いを列快諾して下さいました。です” からサロンがオープンして1″年半くらいは手形の支払いにレ追われることになります。期  そのような状況にも関わらずヽ大工さん達は、サロンに商品ケースもないのはかわいそうだといつて、お金を出し合って化粧品ケースを買ってくれました。機器屋さんは紫外線消毒機をお祝いに下さいました。カウンセリングのための机は友人の会社の灰色のスチール机にペンキを塗り、冷蔵庫や洗濯機は中古のものを1万円で買いました。お客様の座る椅子やテーブルを買うお金がなくて困っていると、友人達がお金を出し合って買ってくれました。私はその時、サロンー軒を得るよりも、もつと大きな人情や友情をもらつたような気がします。ですからサロンオープンは感動そのものでした。

続きを読む≫ 2013/10/18 23:58:18

私は美容室向けの化粧品販売で600万円の貯金がありました。これでエステティックサロンをオープンしようと決心しました。25歳だった私に600万円は大金でしたから、これだけあれば何でもできると思い、不動産屋に飛び込みました。「どんな商売ですか?」「エステティックサロン?」「エステティックってどんな仕事?」から始まりました。当時、ほとんどの人がエステテイックを知りませんでした。「何坪の物件をお探しですか」と聞かれた時には、「坪」がどのくらいの広さか検討がつかず、破れかぶれで「この事務所くらいの広さです」と私が答えたために、15坪の物件を探すことになりました。「大阪の難波で15坪というと、保証金が1500万円位です」と言われた時は、訳が分からず、「それはいったい何のことだろう」とびっくりしました。暑い夏の盛り、その不動産屋の社長は扇子をバタバタ仰ぎながら、「そりゃあ、下村さん、600万円では無理でっせ― 難波にはそんな安い物件、ありまへん」と言うのです。「では、もう少し安いところで」と探してもらいましたが、どんどん繁華街から南下して大阪球場のあたりでも保証金が780万円。それが、その不動産屋の中で一番安い物件でした。初めての物件探しは、あまりにも手持ち資金が少なく、惨めで心細いものでした。

 

 

しかし「探せばきっと安い物件があるはず」と思い直し、嫌がる不動産屋を連れて大阪球場の裏を歩き回っていると、古びたマンションの2階にテナント募集の看板がありました。飛び込んで値段を聞いてみると、22坪で保証金200万円、家賃H万円― そこは10年以上倉庫として使われていた部屋でした。「やったあ― ,し」なら借りられる」と大喜びで契約しました。有閑マダムが来ると想定していたサロンは、とんでもないボロビルでした。ビルの前に「立小便するな」と書いてあるような所。サロンの名前はエステロイヤルシャトーとか、グランドパレスなどを考えていましたが、とてもそんな雰囲気ではありません。総合エステティックサロンにするつもりでしたが数種類の機器を買うこともできません。そこで私自身、 一番興味のある痩身一本でやろうと決め、百歩譲って、「やせる専門店シェイプアップハウス」と命名しました。私自身が太っていたので、太っていることの悲しさや痩せたいと願う女性の気持ち、痩せられない自分自身の弱さへの嫌悪感など、ほとんどのことを経験していましたから、お客様の気持ちがよく分かります。お客様といつも一緒の気持ちでいることができて、「やせる専門店」でスタートするのが一番いいと思ったのです。それまでにも、エステティックスクールで美顔や痩身も学んでいましたが、オープンまでにはより専門的で東洋的な療術なども勉強しました。

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当時のエステティックサロンは、先生兼オーナーが5日間ほど、美容機器メーカーの講習を受けてサロンをオープンしていました。そこで働くエステティシャン達はその先生から教えてもらつた知識だけでお客様に接していましたから、化粧品も使う順番を知っているくらいだったのです。ましてやお客様の肌質や体質についての知識はほとんど持っていませんでした。私が化粧品販売のために勉強をさせてもらつた講習会はとてもよい教育をしていて、皮膚の構造や肌のタイプ、体質と肌質、化粧品の知識から施術の意味まで、丁寧に教えていました。深く勉強させてもらつたと感謝しています。化粧品を売るために美顔術を習得した私でさえ、それくらい勉強しているのです。それなのに、本格的なエステティックサロンで働いているエステティシャンに、ちゃんとした教育がなされていない……。「なんてかわいそうなエステティシャン達だろう」で」の一生懸命なエステティシャン達が知識を身につけることができれば、彼女達が望んでいる『お客様が喜ぶ効果』をもっと出せるはず」と思いました。

 

 

更に、私がサロンに通っている間にも、 一生懸命なエステティシャン達がたくさん辞めていくのです。客として寂しいばかりです。で」の人達が知識をもって、お客様を本当にきれいにできたとしたら、仕事が面白くなって辞めることはなくなるのではないか」「知識があればお客様をきれいにできて、お客様に喜ばれたら、働き続けられるのではないか」とも思いました。お客様も技術者も「なぜ、この化粧品を使って、この施術を行うのか」をお互いに理解し、施術を行えば、エステテイシャンも間違いのないプランが組めますし、お客様の不安もなくなり、安心してきれいになっていくことができます。そんなことから、「明確な理論を持つエステティックサロンを作りたい」「エステティシャンにエステテイックの勉強をさせてあげたい」「エステティシャンが自分の仕事に誇りを持てるようにしたい」と思い、それがサロンオープンのきっかけとなりました。

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しかし、そのおかげで教え上手になれたと思っています。自分ができない経験をしてきたので、できない人の気持ちも分かりますし、なぜできないのかも分かります。例えば、施術で「指先を寝かせて、優しく丸く円を描くように指を動かす」と指導しても、力を入れて指を立たせてしまう人もいます。また、言葉で説明しても、「指を寝かせる」ということが分からない人もいます。そんな時も、自分が失敗が多かったからこそ、「力を入れると指先が立ちます」と前以て話すことができます。そうすると、生徒は力を抜いたら良いということが分かるのです。私は、各地のサロンを回って、社員にエステテイツクをしてもらうことがあります。もちろんお金も払います。その時に「力を入れ過ぎている」とか、で」れは第一関節を曲げたらいいだけなのよ」とか、「そこの場所じやない、ここ」とか、ちょつとしたコツをアドバイスします。できない人へは、手をとつて指導することもあります。その後、社員はお客様から「上手くなったね」と誉めてもらえるようです。社員が突き当たってしまう壁には、私も全部突き当たつてきましたから、そのお陰で教え上手になれたのかもしれません。

 

美容室で美顔を教えながら、自分の美顔サロンを持てたらいいなあと漠然と考えていた頃、私はエステテイックサロンに通っていました。24歳の頃のことです。そこで働く若いエステテイシャン達はお客様をきれいにしたいと一生懸命に施術していました。私は自分よりも若い人達が一生懸命働いていることに感動していました。エステは人の体を触り、会話も多い職業ですから、人間好きの気のいいエステティシャンが働いていました。しかし、エステテイシャン達は「なぜこの人にこの施術をするのか」「なぜこの肌にこの化粧品を使うのか」など、理論的なことが分かっていません。私が質問してもなかなか的確な答えは返ってきませんでした。エステテイシャン達はすごく一生懸命で、汗をいつぱいかいて、私をきれいにしてくれようとします。 一生懸命笑って、 一生懸命しやべつて、 一生懸命施術をしてくれる。 一生懸命お客様にきれいになってもらいたいと思っているけれど、彼女達は皮膚の構造や化粧品の成分についても、知識を持っていませんでした。

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さて、その美顔の技術に私は大変苦労しました。私は学生時代、勉強でも運動でもあまり苦労することはなく、器用にこなしていました。しかし、ここではとことん苦労しました。美容師達と講習を受けていると、私だけが飛びぬけて下手なのです。自分がこんなにできないと感じられたのは初めてでした。美顔の講習会に参加しているのは美容師達ばかり。美容師は皆器用で、マッサージをしても右手と左手が同じように動きます。ところが、私は皆さんのように手が動きません。その時、初めて「自分は不器用だ」ということを知りました。美顔中にモデルの鼻に指を突っ込んだ時は、「もうダメだ、私には向いていない」と思ったりもしました。不器用なのは美顔だけではありません。その後に学んだボデイもネイルもメイクも、先生がつきつきりで教えたくなるほど、私はとても手のかかる生徒でした。ずっと「恥ずかしいな」と思いながら技術を学んでいたような気がします。悔しいこともあつて、ものすごく勉強して、たくさんの友人に練習台になってもらいました。皆大喜びでモデルになつてくれました。例えば、講習会があると聞けば東京までも出かけました。夕方まで講習会を受けた後、宿泊先のビジネスホテルに、東京で就職していたり、大学に通っている友人を呼びました。

 

 

そして、友人をベッドに寝かせて、その日に教わったことを練習します。この時は本当に何回もやりました。そうしなければみんなと同じ速さで進めなかったのです。ずっと不器用だと思い込んでいた私ですが、その後アメリカヘ脱毛や美顔などの技術を学びに行った時に、自信をもつことになります。なんとアメリカでは、私は技術が上手いと評判になったのです。アメリヵ人は何事も大雑把な人が多いようです。日本人の手の器用さ、丁寧さは世界的に見ても群を抜いていると感じました。不器用だったからこその教え上手このように、私は自分自身が不器用と知ってから、ものすごく努力をしました。他の人が10回で覚えることも、たぶん20回や30回は練習したと思います。そして、失敗するであろうと思われるところでは全て失敗してきました。先生が「まさかそれをやってしまうのは千人に一人ぐらいだから、このことについては説明しなくてもいいでしょう」と思われていることも私は必ずやってしまいます。

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